「ニジェールの保育園」2001年4月27日掲載

私は首都ニアメの保育園で保育士たちとともに働くためにニジェールに行った。ギダン・ヤラ保育園という園だった。ハウサ語で「子どもたちの家」という意味だ。子どもたちは私のことを「タンティ・ハルセ」と呼んだ。タンティは「先生」だ。
保育園はニジェール初の試験園として設立されたと言われたが、この国の公務員がいつでも数ヶ月間給料未払いなのと同様、保育士たちも給料が払われず、よく愚痴を言った。それでも私がいた当時は新年度の十月には七十名ほどの子どもたちが入園してきていた。
日本でも入園したての子どもたちの泣きようと怒りようは大変なものだ。ここでも初日から丸一日預けられた子どもは不安で泣き続け、子どもも保育士も本当にご苦労様と言いたくなるような日々が一ヶ月ほど続く。

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「結婚と女性たち」

私がニジェールのギダン・ヤラ保育園にいた1995年から1997年の間に、園の保育士たちが次々と結婚していった。保育士たちはみな二十代だったが、いろいろな経歴の人がいた。
一番幸せそうだったのはマリアマだった。彼女は結婚していて子どもが一人いたが、私がいた間にもう一人生まれた。生まれてすぐに写真を撮ってあげた。できた写真を見たマリアマは満足そうに笑った。穏やかで優しい人だった。
ゴッシーは声の大きい迫力のある女性だったが、子どもたちのことをよく観察していて、あの子はどんな子、と私に教えてくれた。彼女は結婚しないで子どもを産んでいたが、耳の聞こえない女の子だった。
そんなゴッシーが結婚するという。三人目の奥さんになるのだ。結婚式にも呼ばれた。けれどゴッシーの幸せは長くは続かなかった。妊娠し、赤ちゃんが生まれたと思ったら、離婚させられたと聞かされた。一年と数ヶ月の間の出来事だった。

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「モウドゥーの思い出」

ギダン・ヤラ保育園の子どもたちの中に、モウドゥーという子がいた。彼はたぶん保育園に来るには大きすぎたと思うが、重い障害があって両親がここに来るのを望んだのだ。
モウドゥーの頭はとても大きく、額もせり出していた。知的障害があり、言葉はほとんどないように思われた。両手、両足の中指と薬指は接合していて、歩くのも、何かを持つのもぎこちなかった。母親は「フランスで手術を受ければとも言われたけれど、必ず障害がなくなるという保証もないので、このままにしています。」と話してくれた。
入園したてのモウドゥーは庭の端や園舎の入り口でウェーン、ウェーンと泣いていた。大柄なこの子を保育士ももてあましたらしく、誰もかまおうとしない。なんとか気分を変えたいと、話しかけたが、それもいやだと手で私を追いやった。仕方がない、根比べだ。拒否されても何度でも話し掛け、とうとう抱っこし、モウドゥーも笑顔を見せてくれるまでになった。

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「クーデター(その1)」2001年5月1日掲載

1996年の1月にニジェールで軍事クーデターが起こった。
土曜日で保育園は休みだったのは幸いだった。私は壊れた椅子や机を技術科教師の隊員に直してもらうことにしていたので、お昼過ぎに自転車で保育園に向かった。保育園は官庁街の真ん中にあった。まさにこれから銃撃戦が行われようとしているところに向っていたのだった。
官庁街に入ったところでパンパンと運動会の朝にあげる花火のような音が聞こえたが、何も気にせず走りつづけた。あれは銃声だったのか。保育園の前に来て何か変だと思った。園のガルディアンが早く早くと私を招いて門の中に入れた。車が慌てて引き返してきた。真剣な表情で走ってくる人が門の隙間から見えた。

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「クーデター(その2)」2001年5月8日掲載

クーデターの首謀者はマイナサラ参謀長という人物だった。彼らは大統領警備隊の施設と、スタッドと呼ばれていたコンサートホールで銃撃戦を行い、スタッドで当時の大統領と首相を捕らえた。銃撃戦は三時間ほどで終わり、夕方には平穏になったが、夜間外出は禁止された。
一ヶ月ほどは毎晩装甲車の通り過ぎるが重く聞こえてきた。遠くで銃声が聞こえることもあった。スタッドの壁はしばらくの間大きな穴があいたままになっており、攻撃の規模を思い知らされた。
大統領警備隊の施設は官庁街のはずれにあった。その出入り口の正面近くに協力隊事務所、調整員宅が集中していた。調整員の自宅の塀一枚を隔てたところで装甲車が警備隊に向って攻撃していたという。犠牲者の数は報道されていたよりも多いと噂された。

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